マーチングバンドの歴史に触れてみよう!戦場からスポーツイベント、ソサエティにおける演奏まで
本日もおつかれさまです。
EarPeaceによるマーチングバンドプログラムは、若い音楽家の耳の安全を確保したいとの熱意によって立ち上げられました。プログラムディレクターへのインタビュー記事は、こちらです。
けれども、マーチングバンドの歴史についてはあまり知られていないと思いますので、今回は歴史上の輝かしい瞬間を取り上げてみました。
戦争とともにあったその始まりから、実に幅広い歴史があることが分かります。
どうぞお楽しみください!
その1:ノートルダム大学の「バンド・オブ・ザ・ファイティング・アイリッシュ」創立
軍楽隊は古くから存在していましたが、世界最古の大学マーチングバンドとして、1845年にバンド・オブ・ザ・ファイティング・アイリッシュが創立されたことは、画期的な出来事でした。その41年後に、ミシガン大学とのシーズン初戦で演奏して以来、試合の応援演奏を続けています。
歴史的大学マーチングバンドの誕生!
その2:ジェームズ・ユーロップ中尉率いる第369連隊の「ザ・ハーレム・ヘルファイターズ」
第一次世界大戦中にハーレムから生まれた第369連隊は、黒人のみの編成で、戦場における勇猛さとバンドとしての才能を広く世に知らしめました。
シンコペーションの効いたリズムとスタンダードジャズのリミックスで、ヨーロッパ中に知れ渡り、1919年に初代バンドリーダー、ジェームズ・リーズ・ユーロップが惜しくも仲間のミュージシャンに殺害された後は、ノーブル・シズルがリーダーとなりました。
ジャッキー・マローンは、「第一次世界大戦の白人の兵士たちは、よく整備された機械か戦闘ロボットのように行進しようと尽力したが、ジェームズ・リーズ・ユーロップ率いる369連隊の黒人バンドマンたちは、別のドラマーのビートに合わせて歩を進めた」と記しています。
結果として、バンドは黒人音楽家や劇作家の文化的地位を押し上げることになりました。
戦場で勇ましく演奏、行進しました!
その3: ジョン・フィリップ・スーザの口ひげ
「マーチ王」と呼ばれたジョン・フィリップ・スーザ(1854-1932)は、海兵隊の公式行進曲「センパー・フィデリス」やアメリカの国家行進曲「星条旗よ永遠なれ」など、130以上の行進曲を作曲しましたが、さらにその口ひげによっても名を馳せることになりました。
「口ひげのことはもういいです!」と思っていたかも。
その4:初のハーフタイムショー演奏「イリノイズ・レジメンタル・バンド」(ザ・マーチング・イリニ)
もともと大学アメフトの試合前にはバンド演奏が行われていました。1907年、マーチングバンドディレクターのアルバート・オースティン・ハーディングは、開幕戦のハーフタイムのフィールドにバンドを率いて華やかに登場、こうして今日まで続く伝統が生まれました。
その5 :映画「アメリカン・パイin バンド合宿」
続いてこちらは映画です。主人公が無理やりバンドキャンプへ行かされるストーリーに大笑いした方もいるかもしれません。2005年当時、高校でマーチングバンドに参加していた若者たちは、まさに時代精神の中心にいたと言えるでしょう。
その6: パサデナの「バラの祭典」
1890年、カリフォルニア州パサデナのプライベートソーシャルクラブ「バレーハントクラブ」のメンバーたちは、寒くて雪の多い冬を過ごしている東部の家族や友人たちのため、自分たちの存在をアピールすることにしました。
「ニューヨークは雪に埋もれているけれど、西海岸では花が咲き、オレンジが実ろうとしている。この楽園を世界に伝えるために祭りを開こうじゃないか!」
こうして開かれたのが、「トーナメント・オブ・ローズ」。花で覆われた馬車のパレードの後に続いて、徒競走、ポロ試合、綱引きなどが行われました。
数年後にはマーチングバンドが加わり、歴史に残るパレードとなりました。さらに1902年、パレードの費用捻出のためにフットボールの試合も追加されました。
その7:映画「ドラムライン」
ニック・キャノンとゾーイ・サルダナが主演し、マーチングドラムの才能溢れるデボンが、ニューヨークからアトランタのA&T大学マーチングバンド部へと向かう青春映画。新しい学校で自分の居場所を見つけようと奮闘する典型的なスポーツ物語です。
「ドラムライン」予告編
その8: 南北戦争後のニューオーリンズ復興期と「セカンド・ライン」の台頭
南北戦争後、ニューオーリンズの復興期がなければ、マーチングバンドは、今日のような姿にはならなかったでしょう。
黒人の流動性が高まったこの悲惨な戦争後の短期間、ニューオリンズには様々な慈善協会が存在し、市の政治指導者たちから支援を受けていました。
こういったソサエティ(ニューオリンズには、テンプル騎士団から野球クラブまで226以上の黒人ソサエティがありました)は、有名な「セカンド・ライン」葬儀を含むイベントで演奏するために、黒人バンドを雇うようになりました。
ジャズ葬というニューオーリンズ独特の葬儀パレードがありますが、先頭のファースト・ラインは親類など故人の関係者たちによる列、続くセカンド・ラインがバンド演奏とその音楽に魅せられて集まる人たちの行列です。
復興期の終了とともに支援は減少したかもしれませんが、バンドの文化は今も根強く残っています。
( photo: Jazz Times ) 葬儀でも演奏されます!
その9:第1回メイシーズ・サンクスギビングデー・パレード
1924年、マンハッタン34丁目にあるメイシーズの従業員のほとんどは、アメリカに移住してきたばかりで、母国のパレードやお祭りのような、そして同時に新しい自由の国の繁栄を祝う催し物を行いたいと考えていました。
そこで、クリスマスの日に店員たちは仮装し、華やかな山車やバンド、セントラルパーク動物園からレンタルした動物たちを率いてヘラルドスクエアまで行進しました。
旧世界の祝祭と新世界の繁栄が融合したこのパレードは大成功を収め、25万人以上の観客が集まり、以来この祝祭はアイコンとなっています。
その10:ビヨンセのコーチェラ・フェスティバル2018出演
最後は、なんとビヨンセの登場です。
ビヨンセは、公演への準備のプロセスを描いたNetflixのドキュメンタリーで、「コーチェラをやると決めたとき、花冠をむしり取られるのではなくて、私たちの文化をコーチェラに持ち込むことの方がさらに重要でした」と語っています。
このショーは、アメリカのHBCU(古くからアフリカ系アメリカ人学生の教育を目的としていた高等教育機関の総称)のバンドの豊かな歴史を生かし、以下の素晴らしい作品を生み出しました。
以上です。戦場で勇ましく演奏していたとは驚きですね。さらに大学やスポーツイベント、多彩なソサエティでの演奏、ビヨンセの発信するメッセージに至るまで、非常にバラエティ豊かな歴史があることが分かります。
今この瞬間も世界の様々な場所で、マーチングバンドの演奏がなされていることでしょう!
それではまた!